酒田大火 ~その形跡編~
酒田大火の形跡を追って、酒田の街をウロウロしていたのですが
街は、火災の後、防災を視野に入れた大区画整備を行ってるため
街の中に、火災の残骸はほとんど残っておりませんでした。
そこでイロイロと調べたところ
火災の形跡は、この「酒田市立資料館」に残されているという情報をつかみ
大通り公園に隣接してる、「酒田市立資料館」に足を運んでみました。
大きなお釜がお出迎えしてくれます。
入場料100円を払って、中に入る・・・。
( ・ω・)<すみません・・・写真を撮ってイイですか?
(゚Д゚〃)<何に使うのでしょうか?
( ・ω・)<ブログにUPしたいんですけど・・・。
(゚Д゚〃)<ああ、そうですか。
そうですか・・・。ってことは、、、、、撮影OKってことか??
UPしてOKってことか??
どうなんだ? おい~! おいいいいい~!
一応ですな・・・。
資料館の酒田大火に関する資料を全部UPしてしまうと
資料館の存在意義ってモノが無くなってしまうわけだし
100円を払ってまで見ようとしない人がいるかもしれない。
なので、そのあたりを配慮してですな
資料館内にある展示物すべてでは無く、一部をUPさせてもらうことにする。
Web上で見るよりかは、絶対に生で見たほうがインパクトがあり
そのリアルさを、ナマ生しく感じる事ができるので
是非!是非!100円払って、資料館に行って見てください!!
・・・と断っておいて、UPします。
「この蛍光灯は、酒田大火区域から道路を隔てた北側・旧天正寺町の
民家内にあったもので、蛍光灯の笠は、大火の熱で歪んでいる。」
道路を隔てた民家で、蛍光灯が融けるこの塩梅。
いかに火の勢いが強かったが分かる。
焼け跡から発掘された「カメラ」。
カメラの形が、昭和51年を語っている。
大火の中にあった、木製の電信柱。
半分以上焼けたうえに、丸焦げ・・・。
33年たった今でも、炭が手に付く。
高熱で融けて、くっ付いてしまった貴金属。
こうなると、元は何だったのかサッパリわからない。。。
倒壊する寸前の火元となった映画館。
隣にあった美容室「エレナ」の看板がかすかに見える。
おそらくアングル的に、西側から撮影したものではないかと思われる。
出火して間もなくの映画館と思われる。
「愛のコリーダ」、「グリーンドア」。
火元になった映画館は、そっち系の映画も上映していたようだ。
カラーで見ると、火災の凄まじさをリアルに感じる。
大沼デパートの裏が出火元であり
東に向かって火災が伸びていったことがよく分かる写真。
大沼デパートが、火の勢いが強すぎて
火災の広がり防止にはならなかったことも分かる。
村杜稲荷・・・って読み取れるが、これは何処の稲荷様だろうか。
今はどうなってるのだろうか???
酒田大火を知るべく、酒田の街を歩いたわけだが
村杜稲荷の現在の姿や、酒田大火の動画があるのか?など
まだまだ知りたいところが沢山アルです。
今後も「酒田大火」について
スキあらば、イロイロと調べて行きたいと思う所存であります( 'o') ゞ。
2010年10月28日
リンク追加しますた。 お時間ある方ご覧あれ~。。)
酒田大火 ~今と昔編~
酒田大火 ~復興の資料編 その1~
酒田大火 ~復興の資料編 その2~
震災といい、こういう生々しさと実感は、その土地に生きる者にとったらキチンと知っておきたい、記憶にとどめておきたい「歴史」そのもの。それが負の歴史だったとしてもそこからまた立ち上がったんだものね。
こないだやっと「おくりびと」みました。…やっぱ、、、行きたいよなぁ。あぁ〜〜。
ところでこないだ「ずいき」を買ってみましたが死ぬ思いをしました。どうやら単なる里芋の茎だったらしく。。。。
んで、あれは、「コスモス」!!でどう?
出火元となった映画館「グリーンハウス」は、東北ではそれなりに有名な洋画の映画館だったとか・・・。そんなとこからも、映画と酒田って昔から縁があるようです。。。
ずいき!
山形では、干して保存食として食ったりしてます。(多分、煮物に投入)
地方が変わると、コレマタびっくりな使用方法として崇められています。
参照→ ttp://www.higozuiki.com
何年か前に私は酒田を訪ね、このプログで紹介されてる資料館に市の産業会館、被災地域内にあって奇跡的に焼け残った民家、旧本間邸そして山居倉庫に行きましたが、整然とされたかつての被災地を見てたらあの阪神・淡路大震災における神戸大火=その当時の私は大阪に住んでいて阪神・淡路大震災をリアル体験してる=のことを思い出した記憶があります。
にこぽん本舗にご来店ありがとうございます。
酒田にござったとですか。酒田は昔から北前船の港町として栄えたため、関西方面の文化ともつながりがあったりします。そんな酒田は冬季に強風が吹き荒れるため、幾度と無く火災に見舞われています。阪神・淡路大震災の復興計画を考えるにあたり、酒田の街の復興をモデルとして計画が作られたそうです。
どちらも辛い記憶ではありますが、それを伝え続けるというのも大切なことではないかと思うところです。