6月15日って・・・Σ(゚Д゚;あっ!樺美智子さんが亡くなった日だ!
ワシは、その当時のそのような活動に昔っから興味があり
結構そのへんのあたりを、自分で調べちゃったりなんだりしているのね。
登竜門となったのは、この本でした。
結構分かりやすく書いてあるので、ちょいと興味がある人はぜひ読んでねっ!!!
当時の60年代、ワシの父親は千葉の進学校に席を置いており
高校生ながらも、進学校の生徒だけに、カナリ左に寄っていたようである。
「打倒岸内閣!同志は昼休みに校庭に集結せよ!」と黒板に書きなぐって
オルグ活動に余念が無かったそうな・・・。
高校時代、水泳で千葉県記録を打ち出した父親であるが
今では、すっかり歳を取って、心も体も丸くなっている・・・。
世の中でだまされてはいけないものが3つある。
1.宗教にはだまされるな。
1.思想にはだまされるな。
1.飲み屋の女にはだまされるな。
これは、ワシの父親の教えである。
思想にハマッタ父親が言う言葉だけに、やけに説得力がある。
6月15日に、安保を思い出すところは
やっぱりワシも、父親の血を引いているのかしら???
20歳になる前に赤くならない奴は馬鹿だ。
20歳を過ぎても赤い奴は、もっと馬鹿だ。
そんなことを言っていた父親も61歳・・・。
樺美智子さんがいた時代から、46年が経つ・・・。
我が父親は、どんな気持ちで61年目の6月15日を迎えたのだろうか・・・・。
樺美智子さんとは?
樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)は、60年安保当時の東大文学部学生。安保闘争の犠牲となった最初の大学生である。父は中央大学教授、東京外国語大学教授を歴任し、オルテガの翻訳で知られる社会学者の樺俊雄。
兵庫県神戸市の出身。兵庫県立神戸高等学校を卒業後、1957年に東京大学文科II類(現在の文科III類に相当)に入学。共産主義者同盟(ブント)のメンバーとして60年安保闘争に参加する。1960年6月15日のデモで全学連が国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡。警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。彼女の死亡原因は不明だが、学生側の死亡者を出したことで、警察はマスコミや世論から批判されることとなる。このときの教訓から人質事件や学生運動の際に、警察は常に監察医を現場に待機させるようになる。
6月15日の事件はラジオでも実況中継され、樺の死は多くの人に衝撃を与え、悲劇のヒロインとして、その後の学生運動の象徴となる。葬儀は6月24日、日比谷公会堂で行われた。
遺稿集『人しれず微笑まん』(1960年)はベストセラーになった。
ちょっと変わってるとしか言いようがないです。
私も60年とは同時代では無いですけど、その10年後の世代ですので彼女の名前を忘れる事はありません。
あの当時は毎年6.15に何らかの行動があったものです。
しかし今時Blogで彼女の事を書いている人が果たして何人いるのでしょうか。
いやいや、樺美智子さんを知っている方がいるだけで、アッシとしては嬉しいです!
同僚に樺美智子さんの話をしたところ
;゚д゚)<へ~美智子様って東大出身で、左派系だったんだぁ~。と、
皇后陛下と完全に間違われてしまいました・・・。
何で・・・皇室の人間が左派系かと・・・(つ_;)。
何で・・・既に亡くなっているのに、今も生きているのかと・・・(つ_;)。
天国の樺さんは、今の日本をどう見ているんでしょうかねぇ~(; ´Д`)。
言っとくけど、私はまだそのころは子供だったんだからね。
ニュースで何度も映し出される東大安田講堂。あれはオンタイムだったのか、昭和回想録番組なのか。
忘れない人が、数少なくなってもちゃんとこの国にいることだね。
どれも昭和の一コマですが、歴史に不連続は無く
あのコマの続きが、今であることを考えると
なんとも不思議な感覚に陥ります・・・。
当たり前ではありますが、戦前の続きが戦後で、戦後の続きが今で
昭和の続きが、平成であるわけで・・・。
過去の出来事と、ワシ自身の間に、何らかの繋がりを感じてしまいます。
ですので、樺さんにも何か・・・思想的な繋がりとは違う
何か・・・得体の知れない繋がりを感じちゃうんですなぁ。う~む不思議。