酒田大火 ~当時の映像を見る編~
というわけで、酒田大火のお話を、いつもどおり一つ。。。。
酒田大火の動画がないかと探し続けておったです。
日本損害保険協会で、貸し出しビデオがある事は掴んだのですが
借用するのに手間ヒマがかかりすぎる・・・。
もっと、簡単に観る事はできんか???と、思案しておったところ
なぁ~~~に、酒田市立図書館で借りれるんじゃないかい。。。
探し続けていた貴重な酒田大火の動画。
しかと見ましたデス。
ビデオではなくDVD化されておるのが、さすが図書館!
山形放送が製作してるのね。(山形放送=日本テレビ系列の山形の民放。)
では、その内容を一寸だけ紹介。
オープニング・タイトルからすでに、炎の勢いが伝わってくる。。。
激しく延焼する出火もとの映画館、グリーンハウス。
戦前からある酒蔵倉庫を改造して作った木造の映画館であったため
あっという間に、炎に包まれる。
コレだけ燃えているものにもかかわらず、消火に従事する人がまばら。
初期消火の体制が、まずかったことが映像からもわかる。
大沼デパートを越えて、アーケード街に進入したきた炎の画像。
静止画像だと分かりづらいのだが、動画で見ると火の勢いが半端じゃないのがよく分かる。
折りからの強風にあおられ、炎は火炎放射器なみの勢い。
数人がかりで消火をしていますが、ほとんど焼け石に水状態・・・。
炎はアーケード街を進む。
周囲にあった樹木は、それだけで延焼をおさえたそうな。
風向きもあるであろうが、炎は樹木のおかげで北には広がらなかった。
延焼のスピードは、極めて強い風の割には思いのほか遅かったそうな。
炎の進む速度が抑えられたため、住民は非難する時間が稼げた。
その理由の図がコレ。
酒田の家のつくりは、海からの風を想定し
窓が風向きとは反対の方向にしか作られていない構造だったそうな。
ゆえに、炎が簡単に家屋を通過しなかったため、延焼の速度が弱まったとのこと。
都市火災において、車は有効に働かないと考えられていたが
その常識を覆し、車が家財道具の運び出しに大いに役立ったそうな。
近隣に住む親戚が駆けつけ
家財道具の運び出しを手伝い、無事に非難できたケースが多かったとのこと。
地域において、親類のつながりが深かった酒田の街だからこそできた事である。
今、都会といわれる街で、酒田と同じように親類が非難を助けることは難しいであろう。
強風は収まらない。
火の勢いは、街の中心部に入り勢いを強める。
火災で停電にならないよう、東北電力の作業員が
電柱1本1本によじ登り、電気の切り替えを必死になった行ったそうな。
火災が起こってるにもかかわらず、手前のネオンはついている。
自衛隊の救援隊もかけつける。
火は新井田川沿い一体にわたって燃えひろがったが
対岸での消防隊の 直上放水、また、雨が一段と激しく降ったことなどから
対岸への延焼の危険性は去った。
映像は、みぞれ混じりの天候の中
延焼を食い止めるため、家屋に放水をする消防員。
夜が明け始め、火災の現状が明らかになり始める。
インタビューに答える相馬酒田市長。
大変な事になってしまった、、、何ともいえない・・・。
自慢であった街の商店街も、焼き尽くされてしまった。
被災された方には、早急に支援を行う。
市民だけの力では、復興は難しい。県民、国民の皆様のご支援を賜りたい。 ・・・と。
能弁ないつもの市長とは違い、言葉は少なめ。
市長の悲痛な思いが伝わってくる。。。
瓦礫の山。
インタビューに答える被災者。
この方、家を新築したばかりだったそうで、明日引越しの予定だったとのこと。
その新築の家で、来月、結婚する娘と、家族とで集う予定だったそうで・・・。
なんとも、、、、いたましい。
34年経った今、この女性の方、結婚する娘、家族はどうなっているんだろうか?
今も酒田で元気に暮らしているんだろうか?
「家を失い、職場も失ってしまった。」と、泣き崩れる被災者。
34年前の出来事であるが、時代を超えてその悲しみがリアルに伝わってくる。。。
火災翌日に土蔵を開けてしまったため、中から燃え始めてしまった土蔵。
被災したアーケード街の取り壊しを行う自衛隊員。
市では、税金、法律、雇用などの無料相談所を開設し、被災者への支援を行った。
全国から沢山の救援物資が届く。
物資の配給も行われ、市民には笑顔が戻ってきた。
出火もとの映画館グリーンハウス。
客席の骨組みだけが焼け残っている。
火災の翌日から、出火原因についての現場検証が行われた。
出火原因を説明する、後藤博署長。
会見では、グリーンハウスの模型を使って説明。
建物の燃え方、周りの人の証言から
映写機がある部屋の脇の、天井裏が出火元と断定。
漏電した電気コードが見つかり、漏電が出火原因と推測されるが
火災によって漏電した可能性もあり、確証にはいたらなかったとのこと・・・。
全編を見たわけだが、やはり動画だけに非常に「リアル」を感じたデス。
強風に煽られた炎は、予想以上に激しいものでした。
山形の酒田に、こんな火災があったなんて
ワシらの世代である30代後半の人は知らんじゃないか?
もちろん、今の20代なんてのは生まれてないゆえ、知るよしもない。
な~んてことを考えると、こうして記録を残して次世代に伝えていくことは
実に大事なことであると、思うしだいであります。
日本海側にある、ちょっと元気の無い商店街がある街・・・酒田。
何処にでもあるような酒田の街に、何処にでもない出来事があったわけです。。
酒田の街に歴史ありデス。
ニコニコ動画に当時のニュースがUPされていたのでリンクしておきます。
3:09から酒田大火の様子です。
火の勢いが半端じゃありません・・・。
さらに詳しくは「酒田大火研究室」においでください。
久々にコメントさせていただきます。
本日(1月12日)、私は東北周遊の途上、午前中に酒田を訪ねて市立資料館へ行きましたが、2001(平成13)年秋に初めて庄内平野の中心都市・酒田を訪ねて以来2度目だったものの、資料館にて酒田の大火に関する映像(NHKさん「あすへの記録」とYBCさん=上記のです=)をそれぞれ視ましたけど、YBCさんのは余りにも強烈すぎてどこにでもある様な商店街が炎に呑み込まれてゆく映像は、思わず涙してしまいました。
最もあの時代のニュース報道のカメラは16mmフィルムの時代であって、ビデオカメラはまださほど普及してなかったものの、大火の映像を若しビデオカメラで撮影してたなら、フィルムで撮影する以上にもっと衝撃的ではなかったかと思います。
「災害は忘れた頃にやってくる」とかの寺田寅彦翁は言ってましたけど、あの時代と比較すると消防力はかなり向上いたしたものの、いつまた大火が起きないとは限らないので日ごろからの防災に関する備えが、今回の酒田大火の映像をとおして痛切に感じた次第であります。
それでは、失礼させていただきます。
丁寧なコメントをいただきありがとうゴザイマス。
そうですか、酒田を訪れたのですね。
冬の日本海側は強風が吹き荒れ、地吹雪もおこりますが、みやのこ様が訪れた際は、天候のほどは大丈夫でしたでしょうか。
被災から復興を遂げた酒田の街ですが、平成のこの時代になると、イマイチ活気が無いのが残念なところです。
高速道路が新潟側・秋田側と繋がると、もう少し酒田の街も活気付くかと思われます。
山形県民としては、酒田の街の更なる発展を願う所です。
2016年…今年、40周年イベントがあるという話を耳にしまして情報収集していたところ、コチラが目に入り拝読させていただきました。
私の誕生日は1976年(昭和51年)10月25日です。また、前後日に産まれた酒田出身の級友が数名おります。
あの大火の中で私達は障害を背負う事無く、いたって健やかに、人並みの苦楽を味わいながら本日まで生きております。
被害者、と言えばおこがましい立場ですけれど、それぞれに、当たり前に未来を見据えて生き続けている事をお伝えしたくて、コメントいたしました。
被害者を案じてくださったそのお気持ちが、とても暖かく染みました。感謝します。
今年で酒田大火から40年ということで、山形新聞にもイロイロと記事が載っておりますね。
でらっちさまは、酒田大火の直前に生まれたのですね。
自分の生まれた時間、場所で何があったを紐解くのは
大変ヨイ塩梅であると思います。
会社の若い世代は酒田で大きな火事があったことを知りません。
昔あった出来事を次世代に、どしどし伝えたい!
と思うと同時に、自分も伝える側の年齢になってしまったのだなぁ…。と、歳をとったことを感じます。。。
でらっちさまと同じ世代
お互いに、酒田&山形の明るい未来を作りませぅ^^)♪